久米島紬は、沖縄県島尻郡久米島町で織られる紬であり、2004年には琉球王国時代から継承されている草木染めや泥染めなどの製作技術が重要無形文化財に指定されています。この紬は、基本的に染付から織りまで1人で行われているのも特徴であり、島内では養蚕のよる生糸の生産に加えユリの仲間であるサルトリイバラなどにより染付が行われている事から島内で全ての工程が行われています。久米島は、年間を通して温暖である事からカイコの餌となる「シマグワ」が良く育つとされ、シログワが枝条が短く柔軟性がある事から台風にも強いので現在では年に何回も孵化する事が出来、効率的に生糸の生産が出来るのもこの地区の特徴です。しかし、主力産業が農業である事から農繁期の4月〜6月に養蚕業に勤しみ、農閑期よなる9月〜11月に染色及び12月〜翌年の3月まで織り作業が行われています。染色は、湿度が低く生糸の乾燥が早く日差しが和らぐ9月〜11月に行われ、1年分の染色をこの時期に済ませてしまうので徹夜に近い作業が続けられるハードな作業です。染色は、島に自生するサルトリイバラ科の植物染料のみを用いて行われますが、泥による媒染やユウナの炭で染めるグズミ及びヤマモモとナカハラクロキ染皮の2種の染皮を同時に煎じる特殊技法などが行われています。その為、この紬の代名詞となっている光沢にある煤竹色に加え、銀鼠色や鶯色など様々なカラーバリエーションと織り柄があるのも特徴です。泥染めは、サルトリイバラ科の植物染料を煮詰めた染料に1日あたり4回から5回の染色を10日程度と続け、テカチ染めと泥媒染を繰り返し光沢のある黒褐色が出来上がります。ユウナ染色は、オオハマボウであるユウナを炭化及び粉末化して豆汁に混ぜた染料に1日あたり5回の染色を8日程度繰り返し、ミョウバンで色調を合わせて作り出されるのが銀鼠の灰色です。ヤマモモ・クルボー染色は、ナカハラクロキであるクルボーと黄色染料のヤマモモを煮詰めると共にミョウバンで色調を行い、泥による鉄媒染を行う事により鶯色が出来上がります。久米島紬は、織り上がった反物を30℃程度のぬるま湯で洗うと共に天日干しを行いますが、8分乾き程度の状態の反物を木綿で包み約4.5kgの杵で20分〜30分叩き続ける「きぬた打ち」を行います。きぬた打ちは、この紬独特の光沢を生み出す重要な作業であり、きぬた打ちの前後では全く風合いが異なるのも特徴です。久米島紬は、南部の南山と中部の中山及び北部の北山の三山統が並び立つ古代琉球の三山時代に島内の堂の比屋が明で養蚕技術を学んだ事が起源とされ、1619年に琉球王国第二尚氏王統第8台国王尚豊王によって北陸道越前国から坂元普基を招聘に加え、薩摩藩の友寄景友の来島によって紬の製法が確立されました。この紬は、1903年の地租条例及び国税微収法の施行により織物税の制度が撤廃された事に起因して藤戸竹網氏のヤマトムシグヮの導入など紬製造の為の改良事業は複数推進され、1906年には久米島尋常高等小学校に女子実業補習科が併置されると共に1907年に両村組合立女子工業徒弟学校となります。1916年には、久米島紬織物協同組合も設立された事により1923年に42129反に生産するまでに生産層と需要が成長しますが、1929年に端を発する世界恐慌の煽りや第二次大戦及び昭和天皇への犠牲に起因して原材料の生産が停止した事により途絶えてしまいました。しかし、具志川村の上江洲で養蚕業の復活をきっかけに1951年に両村協議会が設立され、1952年に共同養蚕室の建設や1955年に久米島紬復興期成会及び村役所構内に共同染色場の建設など紬の生産に拍車がかかり現在に至っています。